au三太郎や家庭教師のトライなど、ユーモア溢れるCMを手掛けるクリエイティブ・ディレクター、篠原誠さんに幼少期のエピソードを伺いました!

インタビュー
au三太郎や家庭教師のトライなど、ユーモア溢れるCMを手掛けるクリエイティブ・ディレクター、篠原誠さんに幼少期のエピソードを伺いました!

au三太郎や家庭教師のトライなど、一度見たら忘れないユーモラスなCMを手掛けるクリエイティブ・ディレクター、篠原誠さんにクリエイティブに溢れたパワフルな幼少期や今の仕事に繋がるお話を伺いました!

2回の前編では、篠原さんの幼少時代にフォーカスし、自然あふれる三重の田舎町で過ごした仲間との思い出や家族とのエピソードをご紹介!


篠原誠
【プロフィール】
三重県出身。一橋大学商学部を卒業後、株式会社電通に入社。営業志望だったがクリエイティブ配属になり、現在『au 三太郎シリーズ』『家庭教師のトライ』などのCMを手がけ、2015年クリエイター・オブ・ザ・イヤーを受賞。『海の声』『みんながみんな英雄』の歌詞を手がけ、NHK 『みんなのうた』の「デッカイばあちゃん」でも歌詞を担当。

TOPIC 1
:三太郎と過ごした幼少時代
TOPIC 2 :笑いの絶えない家族
TOPIC 3 :今につながるエピソード

▲▽ TOPIC 1 :三太郎と過ごした幼少時代

 ―まずは、篠原さんの子どもの頃のお話をお聞かせください。

Google Mapでも詳細までは出てこない様な、三重県のギャグみたいな奥地に住んでいました。小学校の同級生も女3人男3人の6人しかいなくて、必然的に男三人、“ひできん”と“こうちゃん”と僕と、三太郎(auCMに登場する桃太郎、金太郎、浦島太郎)の様に毎日一緒に遊んでいましたね。山の中で秘密基地を作ったり、山の中を冒険して死にかけたり。見知らぬ崖を登っていっては、途中で上にも下にも行けなくなり、あーどうしよう!!となって(笑)。
あとは魚釣りとか虫採りとか鳥捕りとか。特に好きだったのは釣りですね。ヤスでついたり投網でとったり、しゃくりという棒の先に針がついたもので引っかけたりもしていました。
 

―自然の中で遊べるのは田舎ならではの醍醐味ですよね。他にはどんな遊びを?
遊ぶものはだいたい自分で手作りしていたのですが、一番すごいけど大けがしたものがあって。鳥を捕るのに、短いサイズで鳥を落とせないかと思い、まず細い竹筒を作って、次に駄菓子にある様な細い竹串をそこに通して、筒にゴムをつけて串をゴムに引っかけてパーンと放したら、シューンとめっちゃくちゃ飛ぶ道具を作ったんです。
これは一発で鳥を落とせるぞ!と思い早速やってみたら、次の瞬間、手に竹串がブスーっと刺さって、「イタタタタターーーッ!!」となって(笑)。高性能だけど、これは本気で危ないと思って使わなかったですね。あとは、木でパチンコ台やガンダムのトマホーク(斧)を作って遊んでいました。
食べ物もよく作っていました。家にかき氷機はあったんですが、シロップがなくて。親にシロップを買ってとは言えなくて、これは自分で作るしかないなと。
お店をやってる親戚のおばちゃんに売り物にならないリンゴをもらい、まずジュースを作って、それを濃くすればシロップになるんじゃないかと考えてやってみたんです。
りんごジュースって透明のものと不透明なもの、2種類あるのですが、絞っただけだと不透明で、煮詰めると灰汁だけぎゅっと集まって透明に変化するんです。熱処理するかしないかで色が変わるんだと気づいて。

 
―もうそれって自由研究の域ですよね!何年生ぐらいの時だったのですか?
小学校4年生ぐらいでした。煮詰めが足りなくて、もう少し煮詰めた方が美味しなとか、いっそ原液を凍らせてそれをかき氷機にかけたら美味しいんじゃないかと思ってやってみたりして。もうそれがべらぼうに美味しかったのを覚えています。

 
―三人での遊びはほぼ自然の中で?
いや、近代的な遊びもしていました。ひできんがファミコンを持っていたので、彼の家にファミコンをしに行ったりもしていました。

 
―三太郎の中ではどんなタイプだったのですか?
どちらかというと僕が桃ちゃんというか、ガキ大将タイプ。ひできんが運動神が経良くて、こうちゃんは当時からパソコンでプログラミングをして自分でゲームを作ったりする様な子で。

―当時からプログラミングとはすごいですね!
今思い返すとそうなんですよ。こうちゃんは頭が良くて、昆虫にも詳しくて。ファーブル昆虫記とかも読んでいてもの知りでした。
それぞれ性格はデコボコでしたが、仲はめちゃくちゃ良かったです。3人しかいないので誰かとケンカすると遊びが成立しないのもあってすぐ仲直りするんですよね。

 
当時はほんとに遊ぶものがなかったので、工夫して作るしかなかったんです。ないものは作ればいいと思っていました。

 

TOPIC 2 :笑いの絶えない家族

―ご両親はどんな人でしたか?どんな家庭環境でしたか?
子どもながらに薄々、我が家が裕福ではないことには気づいていて、「うちってもしかして貧乏?」と母に聞いたら「そうやよ~!」とえらくポップに言われたことがあって(笑)。自分で靴下をつぎはぎして履いていましたし。
母親はそんな感じで、とにかく明るくてあっけらかんとして大らかな人でした。父親は釣りが好きで、よく一緒に連れて行ってもらいました。
二人ともつまらないことでもよく笑う両親で、おならのくささとかどうでもいいことで笑いあったり(笑)。
あと、僕は一番末っ子なので、基本的に全部一番上のお兄ちゃんのおさがりだったんです。長男が高校の時着ていた制服を中学で着させられて、中学に入学したときに「まこりんの中ランやん!!」とみんなからイジらたことも。当時短ランとか中ランとか刺繍が入っているやつとかが流行っていたんです。かばんもぺっちゃんこでしたし。僕はヤンキーでもなくむしろまじめな方なのに、それで先輩から目を付けられて。でも、うちの兄がヒエラルキーの上の方だったみたいで、「おまえ、あのひでなりさん(兄)の弟!?」となって、逆に可愛がられました(笑)。

 

―家族との思い出は?
両親とも働いていたので、家族との思い出といえば食卓ぐらいです。男三兄弟なので、ご飯が出てきて会話をしていると無くなってしまうので、出てきたら先ずは食べる。あっという間に無くなって、食べ終わってから会話をするという感じでした。

我が家はものが潤沢にあるという状態ではなかったですけど、まったく不満はなかったです。

 

―ご両親から言われた記憶に残る一言はありますか?
母親は高校にはいっていなくて、父親は鉄工所で働きながら夜間高校に通っていたそうです。だから父親は学歴なども含め、結構苦労したみたいだったんです。そういうのもあってか、親父から「お金は残されへんけど、勉強したいんだったらどこでも出したる。」「学んだこととか身に着けたことは誰にも奪われやんから。」
と言われたのが非常に印象的で、このセリフはau三太郎のCMでも使っています。

 

―当時なりたかった職業は?
幼稚園の時に、なりたいものは「役場に行く」と書いていました。ただ、それは父親が役場で働いていたからであって。その後も特になりたいものはなかったのですが、当時から「井の中の蛙」ということわざが気になっていて、なるべく色んな所に行きたいなという想いはありました。兄が二人とも高校から下宿する様な環境でもあったので、特別何になりたいというものはなかったものの、見たこともないところにいきたいなとはずっと思っていて、大学も東京を選びました。

 

▲▽ TOPIC 3:“今”につながるエピソード

 ―他にはどんなことを?
遊ぶこと以外は、とにかくテレビをずっと見てました。コンビニも何も無い田舎だったので、世の中と通じる玉手箱がテレビしかなかったんです。唯一あの箱が現代と繋がってる箱だったので、アニメも見るしNHKも見るしドラマも見るし、ほんとに何でも見てました。

あの箱の中で何がおこると面白くて、何だと普通でということがなんとなくわかるのは、あの時テレビを見まくっていたのが、何かしら今に繋がってるとは思います。

ただ、CMの間はトイレ休憩だったり、勉強したりしていたので、まさか自分がCMを作るようになるとは思いもしていませんでした(笑)。

 

―それでも当時よく覚えているCMはありますか?
♪ハイリハイリフレハイリホ~ ハイリハイリフレッホッホ~大きくなれよ♪と歌う丸大ハンバーグとか。
同じ丸大ハムのCMで、厚いハムに目玉焼きを挟んで食べるCMがあって、それにめちゃくちゃ憧れていました。「わんぱくでもいい たくましく育ってほしい 丸大ハム」って最後に言うんですよね。
あとは、♪ちくわちくわビタミンちくわ。かあさん早くお願いね♪っていう丸辰のちくわのCMとか。
特別面白かったと言う訳ではないんですが、今でも歌えますね(笑)

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「ないものは作る」と当時からクリエイティブな力を発揮され、今の活躍の土台となる「カギ」が垣間見えた前編。
後編では、やりたいことが見つかり、数々のヒット作を手掛けるに至るまでのお話、さらに、孫とおばあちゃんを繋ぐ歌として話題中の「デッカイばあちゃん」作詞についてのお話を伺いました!

後編は後日公開!お楽しみに!

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